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あ す な ろ ト ー ク 集
9.高校野球に思う
 昭和57年に新チームが結成された時、私は監督の席をバトンタッチした。そして、以後は
九州一円を講演のために歩いている。そんななかで、共通して感じるのは、ここ10年ばかり
の間に、子供たちの考え方、親の望むもの、そしてファンの気質が大きく変化してきていると
いうことであった。なかでも昔と大きくちがうのは、親たちの期待があまりにも大きくふくら
みすぎているということであり、それが子供たちを甘やかす結果となっているようだ。
 ほんの数年前までは、高校野球の練習試合といえば、握り飯をほおばり、水道の水を飲むも
のと決まっていた。今はそうではない。リトルリーグの試合などは、攻守が変わるごとに、冷
たいおしぼりで顔をふいてやったり、飲み物を飲ませたり、いたりつくせりといった光景が日
常的になっている。何とか我が子にいい試合をさせてやりたい、あるいは勝たせてやりたい。
そんな親たちの気持ちが判らぬことはないが、それは決して子供たちのためにはならない。
 きれいごとに聞こえるかも知れないが、高校野球はあくまで教育の一部であることを忘れて
はならない。プロ野球でもなければ、その養成機関でもない。野球というスポーツを通して、
いかに人間を教育するか。それが高校野球のテーマでなければいけない。
昭和59年11月 潮11月号;小嶋 仁八郎(津久見高校 前野球部監督)
【コメント】
小さいときから、手取り足とりで教え、面倒見て英才教育を施すならそれで大いに結構だ。問題はその行為
が誰のためになされているのかである。一見子供のためのように見えるが、実は親自身の自己満足のためで
あるように思えてならない。子供がやるべきことと親がやるべきことを厳しく区別して対応すべきだ。